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こうした歴史の道を通ってきた石山は札幌冬季オリンピック後、急速に宅地化し札幌のベッドダウンとして存在するようになった。そして今もなお商店や住宅・マンションなどが立ち並ぶ静かで穏やかな住宅地としてあり続けている。

記事 藪内一葉

石山地区には古くからある建造物があることを知っているだろうか。例えば、ぽすと館・石山緑地公園・旧石切山駅などだ。これらがいつ建てられ、石山地区では何が行われ発展していったのか石山年表を通して紹介する。​

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石山の歴史を紹介するにあたって絶対不可欠であるのが、大谷光勝である。この人が現在の伊達市付近である有珠から札幌の平岸までの通称、本願寺道路をつくったためその途中にある石山に人がくるようになり、石山の歴史がスタートした。

大谷光勝は、1817年(文化14年)4月22日に東本願寺第20代達如の次男として生まれた。光勝が31歳の1848年(嘉永元年)に当時18歳であった伏見宮邦家親王の四女・嘉枝宮和子女王と結婚した。

しかし、1868年(明治元年)東本願寺と仲が良かった明治幕府が倒幕された。新たな明治新政府と仲良くするため全力で政府に媚を打った。その結果、翌年の1869年(明治2年)に重要視されていた北海道開拓事業をまかされた。百数十名の随員を従えて北海道へ渡った。その後も、光勝は上海の釜山に別院を建て海外布教を行うなど真宗大谷派に尽くしたのち1894年(明治27年)1月15日に78歳にて亡くなった。

① 1814年4月14日、誕生

​② 大谷和子と結婚

③​ 幕府が倒幕される

④ 媚を売るため

米などを新幕府に送る

​⑤ 北海道開拓業を任される

⑥ 上海にも寺などを作る

⑦ 死去

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記事 神成咲良 石田睦騎

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石山陸橋は豊平川流域と南区近郊の山々を広く見晴らせる高台として作られたが、実はもう一つ理由があり、石山の歴史に関係があるのだ。その歴史とは、石山陸橋は以前「望豊台」と呼ばれていて、札幌軟石や硬石を運ぶ馬の 通り道であった尾根の頂上が中継地点となって、馬たちを交替させて軟石を積み替えていて、その当時も今と同じように交通の要衝で相当不便であった。そこで、交通の緩和を 図るため石山陸橋を設置したともいわれている陸橋のすぐそばの小さな空き地には軟石で作られた「望豊碑」がある。 

記事 蒔苗 麻央

石山陸橋

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かつてその場所は、馬は疲れを癒し、人々は身も心も休める場となっていた。そんな先人たちの苦労をしのび、開拓の心を後世に伝えたいという一心から、昭和13年6月豊平町青年団石山分団員が望豊碑を建立し、その後、道路拡幅工事の際に地元有志が保存会を結成し、昭和61年11 月に望豊碑の由来を記した副碑も設立されたそして未来へつなげることを意味するためタイムカプセルを埋めることに。(令和2年の9月11日に予定を早めて保存会と石山緑小学校の共催でタイムカプセルの開封式が行われている「石山の歴史」を永久に保存していこうとする願いに皆さんもキュンとしないだろうか。

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石山軟石は、明治5年にお雇い外国人「アンチセル」が発見し、そこから採掘がはじまる。明治8年から本格的に採掘されるようになり、軟石の採掘は明治8年で採掘量2万個 、明治14年には5万7千個と当時からたくさん採掘された。

 石山軟石の特徴としては、白いまだら模様・軽い・水を吸う・加工しやすいなどがあげられる。一般的な石の特徴は、硬い・丸みを帯びているものが多い・粉が出にくいなどといった事で、これらを比べると石山軟石と一般的な石の違いがよくわかる

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「一般の石」

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「軟石」

皆さんは軟石がどのようなものに使われているか知っているだろうか 実は軟石は皆さんが一度は見たことのある建物にも使われている。例えば、小樽運河倉庫や日本キリスト教団札幌教会などがあり、更に南区では旧石山郵便局であるぽすとかんや啓北商業の授業でも取り扱っている。また、軟石は先ほど言った通り、ほかの石とは違った特徴を持つのでたくさんの商品が開発されている。軟石やで販売されている小原さんの作品は、アロマストーンや表札などが人気の商品だ。私たちも実際にフォトフレームを作って、石とは思えないほどの温かみを感じ、家具との相性もとても良いと感じた。

記事 中鉢真緒 川島実久

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まず初めに皆さんはアイヌについて詳しくご存じですか?アイヌとは、北海道を中心に、樺太や千鳥列島で生活していた民族です。アイヌは、狩りを行い生活していました。石山とアイヌにはどのような関係があるのでしょうか。石山のアイヌの歴史を紹介致します

かつて、石山はアイヌに『ウコッシリナイ』と呼ばれていました。その意味は『山と川が重なっている場所』です。突然ですが ここでクイズを出題します。石山にアイヌは何人住んでいたと思いますか?正解はなんと0人です。どうでしたか?あなたの予想は的中していましたか?私はこのことを知ったとき、北海道であるはずの石山に何故アイヌは 住んでいなかったのかと考えました。

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調べてみると昔の記録から今の平岸と藻岩に位置する天神山と八垂別にはアイヌや狩猟が住み着き狩りを行っていたことがわかりました。また、アイヌの民族衣装であるアットゥシの材料となるオヒョウの木が石山に生えていたこともわかりました アットゥシは アイヌにとっての普段着なので、作るための材料を求めて頻繁に石山に訪れていたと考えられます。

このことを知って私は、石山がアイヌの役に立っていたことがとても誇らしく思えました。皆さんもアイヌが集まるほど自然豊かで魅力がたくさんある石山にぜひ訪れてみてください。

記事 江向萌々香 牧野詩音

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